♯黒板エッセイ

高等学校の先生になった人が最初に読むべきこと

生徒へのメッセージと出版予定の書籍原稿をアップしています。出版社は決まっていません。教員12年目

【人事交流】中学校と高校、先生になるならどっち?(国語・道徳編)

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▼ 高校生の悩み
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先日、とある生徒から「先生はなぜ国語の先生になったのですか?」と聞かれました。その生徒は国語科か社会科の中学校の先生を目指しているようでした。そこで私の方から「高校の先生は目指さないの?」と聞いたら「教える自信がないから無理です」と返ってきました。確かに授業内容は中学校の方が基礎、高校の方が応用ですが、本当にそれだけで判断してよいのでしょうか。今回は人事交流の経験から、国語と道徳に絞って伝えていきたいと思います。


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▼ 中学校国語について
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まずは教科の特性です。国語科という枠で中高の違いを想像すれば、扱う内容の違いが一番に来ると思います。
中学校では国語の教科書を見てみると、そのほとんどが現代の評論や随想、小説等の文学作品を扱っていて、古典作品を扱うことはあまりありません。(扱うとしても、暗唱させたり音読させたりその文章の押韻や調子を肌で感じることが中心で、原文を現代語訳する作業はありません。)ただし、どの時期にどの単元を扱い、どのような指導事項に意識すべきかが詳細に決められているため、このことに最も気を遣わなければなりません。
例えば、"ドボン漢字"です。この漢字は中学2年生の『盆土産』著:三浦哲郎で習う漢字であるため、同じく2年生の『アイスプラネット』著:椎名誠の時点で問題に出してはならないというルールです。つまり、中学校の先生は、どの漢字をどの時期にどの教材を使って教えるのかが全て頭に入っていなければならなかったのです。ここが中学校の先生をやる上で最も大変なことでした。
さらに、先程も言った通り、古典分野が少ないことも大変なものの一つでした。古文でも漢文でも、原文から情報を読み取るレベルは求められていないので、本文の内容がだいたい理解できていればOKです。だから時々、間違ったことが教科書に書かれていることがあります。書き下し文です。
例えば、

乃左手持卮、右手画蛇曰、

という文があったら

乃ち左手に卮を持ち、右手に蛇を画きて曰く、

となるはずが

すなはち左手に卮を持ち、右手に蛇を画きていはく、

と説明されるのです。これが高校での漢文を混乱させています。中学校の先生はそこまで勉強しなければならないのです。




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▼ 高校国語について
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一方、高校では学校によりその内容は大きく変わります。大学進学が多い学校ならば、大学入試を意識した内容を扱うため、長文をいかに早く正確に読み取るか、古典作品を読むための知識をつけているかなどが意識されます。だから中学校とのギャップに苦しんで、国語が嫌いになる生徒が出てきます。ただし、受験で上位の生徒が集まる生徒たちに向けての授業と、下位の生徒が集まる生徒たちに向けての授業が変わるのは当然で、昨年まで「きちんと身だしなみを整えてから授業に取り組もうね」と言っていた先生が、転勤していきなり「古典文法の助動詞の活用表も頭に入れずに古典なんか解けるわけないだろ」と言うようになります。
これが商業科や工業科などの実業高校では、就職が進路の中心になるため(最近は大学進学が増えているようですが、割合としては就職が多いのです)その扱い方は変わってきます。こういったギャップは高校の先生たちのしんどいところですよね。でも、新学習指導要領で、これまでの「現代文」「古典」という考え方が大きく変わるため、今とは異なる課題に直面するように思います。


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▼ 特別な教科道徳
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中学校での実習経験もなかった私は、いきなり道徳をやるよう言われてとてもしんどかった覚えがあります。1つの授業に対し、発問を多くとも4.5個考えておき、その発問に対する答えとしてどのようなものが出るかを想定して授業に臨みます。初めのうちは、この意見が出るといいなという期待感をもって授業を行いますが、学級の理解が進んでいくと、この発問で誰がこの答えを言いそうだから、次はこの生徒がこれを言うだろうという"流れ"が見えてきます。テレビを見ていても、このテーマについてはこの人は多分これを言いそうだなと想像できることがありますよね。あれです。
道徳では先生の発言は極力減らさなければならなかったため、この発問方法は国語科の指導にも大いに役立ちました。ただし、国語の授業と同じようにはできません。国語は「全員でたどり着くべき明確な到達地点」がありますが、道徳では「今あなたがいる場所に反対側の人間を連れてきて、逆に反対側の人間のいる場所へ自分が移動する」ことが主な目的であるため(分かりますか?)全く違うのです。
例えば、こんな作品があります。

譲る気持ちはあるのに…

通学電車の中で
中学生の真が通学の時に利用している電車は、いつも混んでいる。今日は、真は運よく座ることができた。車内を見ると、優先席にまで学生や会社員らしき若い男性が座っていた。
次の駅でおなかの大きな女性が乗ってきた。バッグにはマタニティマークをつけている。けれど、優先席に座っている人たちは、誰も席を譲ろうとはしなかった。
女性は、片方の手にバッグを抱え、もう片方の手でつり革につかまって、電車の揺れで倒れないように足をふんばっている。その次の駅に着いても、その女性は立ったままだった。電車はさらに混んできた。
真は迷っていた。自分が席を譲ろうかな、という気持ちはあった。でも、どうしても声をかけることができなかった。

国語の視点で授業を考えると、①女性が座れなかったのはなぜかなどの事実確認②真はどのようなことに迷っていたかの心情理解が考えられます。道徳も発問のベースは同じなのですが、展開の仕方が異なります。
特に②は、国語の場合、自分も席を譲ろうかなという言葉を根拠に、席を譲ることへの心の葛藤を読み取ります。一方で道徳では、それでも席を譲らなかったのはなぜかを考えさせます。自分は絶対に席を譲るタイプだ!と豪語する生徒がいたら、「じゃあ1日ボランティアを頑張って疲れていたとして、電車内で立っている時に目の前の人が席を立ったら、周りを確認してから座るんだね。」と聞くと、困る生徒も、極端だと怒る生徒も、その意見に対して反論する生徒も出てきて議論が巻き起こるのです。

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▼ まとめ
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今回は国語と道徳を中心に扱い、それぞれの大変な部分に注目しました。先生の仕事はこれだけではありませんから、また次回以降さまざまな視点で違いについて書いていけたらと思います。


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