♯黒板エッセイ

高等学校の先生になった人が最初に読むべきこと

生徒へのメッセージと出版予定の書籍原稿をアップしています。出版社は決まっていません。教員12年目

中1から高3まで担任を務めてみて 後編

前回の続きです。受験戦争を終えて、次のステージへ進んだ生徒たちを迎えたところから行きます。

 

◯高校1年生

一番大切なことは、第一志望の生徒と第二志望の生徒がいるということです。(もしかしたら違う人もいるかも。)いろんな想いの中で、全員が同じ報告を向くためには、担任の1年間の方針を示す必要があります。担任のやり方を伝えるという意味では中学校に似ています。でも、高校によって目指すべき生徒像は全く違うのです。異動したての先生が1年生に配属されることはよくありますが、その学校の校風や方向性が確認できていないと完全に失敗します。

 

◯高校2年生

2年生ともなると、高校の雰囲気もよく分かり、それでいて、喫緊の受験もないことから、のんびりとした1年を過ごしてしまいがちです。だからこそ、早めに進路を意識して取り組むことが大切です。3年生になってから進路を考え始めていると、進路に対する不安が倍増して、思うように学習に対する意欲が湧いてきません。逆に進路がある程度固まっていると、学習に対して迷いなく取り組むことができます。もちろん挫折もありますけどね。

ここで勘違いして欲しくないのは、「進路を固める」というのは、進学先、就職先を決めるという意味ではないということです。もっと先を見据えて、どんな仕事があるのかという知識を貯めておくことと、自身を分析して、自分が楽しいと感じる行動や自分のもつ能力をはっきりさせることが最も重要です。例えば、私ならこうやって文章を書くことが好きで、よく周りからは優しいという評価をいただきます。こういったことから、文字を書く仕事や、優しく接する仕事が良いということを連想して、仕事を探すと、作家、歌手、そして先生が挙げられ、先生を目指す、というようなことです。

 

◯高校3年生

戦争の中で、いかに生徒に高校生活を楽しませるかというテーマになろうかと思います。この戦争というのは、就職も進学も、場合によっては卒業そのものになることだってあります。終わりが近づいてくると、自分の実力に不安になり、とんでもなく遠くへ引っ越しすることも考えることだってあるかもしれません。ただ、最も大切なことは、先ほど書いた「進路希望」を何度も何度も確認することです。挫けそうになる瞬間が3年間で最も多くなる時、この考えが唯一の心の拠り所となります。

 

やっぱり中学校に勤務していたせいで、高校が上手く書けなくなってしまいました。また高校に戻った後にここの部分は書き直したいと思います。

NO.198「休校措置の是非」

おはようございます。明日が本来ならば修了式。そして、現実にあなたたち2年生の登校日です。久々に早起きして、教室の掃除や黒板へのメッセージを書こうかと思っています。これまで日常生活が激変して、それでもその生活にようやく慣れてきて、良いニュースも悪いニュースも聞かれるようになりました。

休校措置が正しかったのか?という結論は、科学で証明するのは不可能です。相変わらず感染者数が増加しつつも、爆発的な増加には至っていないというよく分からない現状だからです。では人々の心で考えてみてはどうでしょうか。幼い子を持つ家庭や、今まで学校が担っていた部分を代わりに働くようになった方にとっては最悪の政策です。それでも前向きに考えて、何とかこの状況を乗り切ろうという強い気持ちをもっている方が多くいて、本当に頭の下がる思いでした。でも一番大切なのはあなたにとって良かったのかです。こんな休みなければ良かったとか、あの時こうすれば良かったというのは、この書き方で分かるように、あなた自身の問題です。この時期に頑張れない人、環境のせいにする人は、状況が元に戻っても同じだと思います。そういう意味では、休校措置をきっかけにもう一度自分と向き合うことが、この休校措置を上手く乗り切れた1人になるヒントになっていくと思います。

 

令和2年3月23日 朝の黒板メッセージ

中1から高3まで担任を務めてみて 前編

2200文字以上あります。一番読んで欲しいのは少経験者の先生ですが、誰が読んでもOKです。

 

今年度まで担任6年間の中で、全て被ることなく中学校1年生から高校3年生まで学級担任として働くことができました。それぞれの学年において、どのようなことが大切かを「先生目線」で書いていこうと思います。

 

◯中学校1年生

初めての制服、初めての単独登下校(集団ではないという意味です)そして、初めての教科担任制で、いろいろなことが初めてなので、1から全てを教えるというつもりで目の前に立ちます。

中には小学校での常識を否定することだってあるのかもしれません。それは、各担任のやり方に任せるという小学校的な指導ではなく、中学生らしさとは何かを学級担任として、教科担任としてなどなど、"ほぼ"統一した指導の中で行っていくということです。なぜ"ほぼ"なのか?それは、完全に統一させることは不可能だし、統一しているならば、先生はロボットで良いからです。指導のズレがあった時には、その都度話題にして話し合います。

特に周りの先生から見られていると感じる点は、授業時の挨拶、忘れ物の多さ、教室の美しさ、準備片付けの素早さです。これらは3年間を通して、意識されることだと思います。

 

◯中学校2年生

私の勤務校だから、ということはありますが行事の多さが大きなテーマになると思います。中間テスト、野外学習、期末テスト、部活動壮行会(激励会)部活動の大会や世代交代、体育祭、中間テスト、文化祭、期末テスト、職場体験、学年末テスト、名古屋班別学習と、並べただけでも大量の行事があります。特に部活動は夏から中心に、3学期からは3年生になるための様々な準備が始まることから、2年生は3年生の準備期間と位置づけられます。ある場面では、自分たちで考えて企画することもあれば、ある場面では、来年はこうしなさい!と指示しながら慌ただしい流れの中でやり遂げる術を伝授していきます。

ただし、別名「中だるみ」の学年でもあります。やる気を失った生徒たちをどうドライブするかも担任の先生の腕の見せ所です。中二病(厨二病)を発症するのも同様です。どちらが原因にせよ、押しつけが通用しなくなってきます。早い子は中1からです。その時にいかに話を聞いて、その通りに行わせて、時には失敗させるかがとても重要になります。けれども、どうなるかを予想して準備しておけば恐怖は全くありませんでした。生徒たちには「先見」という言葉で伝え、私がとんでもなく先まで考えていることに驚いていることもありました。

 

◯中学校3年生

いろんな意味で完成です。中学校1年生、2年生で基礎ができていれば、勝手に何でもやれるようになっています。ここが一番難しいところだと思っていて、4月からもし中学校3年生の担任ならばこれを最も重要な点と位置付けてやろうと思っているぐらいの部分です。それは、何も指示しなくともどこまでできるかを挑戦させる、という視点と、黄金の3日間(以下のサイトが参考になります。)

https://sairan-web.com/class-management/ougonnomikkakan-taisetsu5point.html

のために、こちらのやり方を仕込んでおく、という視点との間で折り合いをつけていくことです。私の場合、中学校の素地がなかったので、とりあえず去年までを参考にやって、とお願いしたら彼らなりにやってくれていました。でも、今考えると、それは彼らだったからできたのではないかという不安を感じざるを得ません。これは1年にわたって、中学校の先生として悩み続ける問題なのだろうと思います。ここは任せるべきか、ここは前に出るべきかと常に考えなければならないし、それに失敗すると、指示待ち人間を大量に高校へ(社会へ)送り込むことになるのですから。

そして、全員が直面する進路です。学校の先生は、進路を学力レベル"のみ"で指導することが禁じられています。なぜなら、学力レベルで判断するのは塾であって、一面的な見方でしかないからです。大切なのは、学力レベルと本人の性格と、ライフスタイル(調査書のような公式の文書と、普段の授業態度のような非公式に共有されている評判)です。

例えば、ボーダーラインギリギリで合格しそうな生徒がいたとしましょう。その生徒が、負けず嫌いで何度もチャレンジしようとする性格ならば良いのですが、自分はある程度できるから大丈夫だと考えて頑張れない性格ならば、そのまま落ちこぼれて最悪不登校になってしまうかもしれません。また、校風も重要です。本人のやる気に任せる校風ならば、自分で頑張れる生徒がベスト、こちらで面倒を見て頑張らせますという校風ならば、頑張り屋の生徒がベストです。。現在この地区で私立傾向が強いのは、この校風が良い形で中学校へ伝わっていないことが原因なのですが…(これは高校の先生方と話して解決すべき問題なので割愛します)

とにかく、その生徒がこの学校なら、その先までしっかりと考えて頑張れるだろうという予測の下、指導を行っていきます。ただし、学力一辺倒の塾が進学先を決め、それを鵜呑みにした保護者や生徒が進路決定し、進学後に苦しむ高校生も多くいるのが現状です。ぜひ、塾の鵜呑みではなく、塾も学校もそれぞれの利点を活かして発信していることを踏まえて、進路決定して欲しいものです。最後は愚痴っぽくなってしまいました。すみません。

長文になったので、続きはまた今度にします。

なぜ国語を学ぶのか?

1600字超の文章です。ご注意ください。

まもなく"国語の先生"になってから丸8年が経とうとしています。これからはシリーズとして、①なぜ国語を学ぶのか?②中1から高3まで担任を務めてみて、各学年でどう違うのか?③部活動は本当に悪なのか?を書いていこうと思います。

 

今回は、「なぜ国語を学ぶのか?」

1年目から、最初の授業で必ず話してきた内容です。あなたならどう答えますか?大卒すぐの頃は、次のような話し方でした。

 

高校の国語は、現代文と古典に分かれているよね。現代文は、普段読まないような文を読むことで、その人が何を伝えたいのかを理解しようと努力する力を身につけることが第一です。

古典、特に古文は、元々こんなきれいな文字ではなくて、古文書と呼ばれる文字で書かれていたものなんです。なぜ読むかというと、千年前の人の文が今の人達と感覚が同じだから。どんどん勉強して、それを実感していきましょう。

 

悲しいですが、今文字起こししながら「こんなの伝わるはずない」と思ってしまいます。なぜなら、高校生のこと、全く考えて話をしていないから。事実、古文書のコピーは、大量のゴミとなって捨てられていました。

中学校へ転勤する頃には少しはマシになっていました。次のような言い方です。

 

国語はなぜ学ぶと思いますか?

それは恋愛です。もっと詳しく言うと、例えば好きな人が伝えたいことって、話からもメールからも受け取りたいって思うでしょ?それが読む力です。この読む力をつけるために、普段みんなが読まない小難しい、興味をもたない文を読まされるんです。もちろん文だけじゃなくて、その人の好きなこととか、喜んでくれることも分かるようになるから、国語ができれば、恋愛も上手くなります!え?彼女?いるに決まってんじゃん。

あと、古典っていうのは昔の人の教科書だからやるの。例えば、春と言って想像するものって何?桜いいね。桜がいつ咲くのかとか、いつ満開かとかは今でも話題になるけど、千年前の人達も話題にしてた訳。だから今の言葉を知るためには、昔の人の感覚を知ったり、言葉を知るといろんなことが学べるんだよ。

 

ここまでいくとだいぶ想像しやすくて、実感がもてるなと思いますが、国語に興味をっていうよりは、言葉巧みに騙しているような感じがします。本質に迫っているように見せて全く関係ない話をしているからだと思います。

そこで、来年度からは、次のように話そうと思います!ここ数日で考えました。

 

国語を学ぶ上で一番大切な力は何でしょう?読む力、話す力、書く力、聞く力、語彙力…。いやいや、一番大切なのは、気持ち。具体的に言うと、

 

いつでも、どこでも、誰に対しても贈り物をしようとする気持ち

 

例えば、今僕が話をしている時に、うんうんって頷いてくれている人がいるね。これは、話している人に「聞いているよ」って合図をしようという気持ちですよね。これは私にとっては話す力とあなたにとっては聞く力。

例えば、好きな小説があって(本を読まない人は好きな言葉があって)それのどこが面白いか、心に響くのかっていうのを伝える時には、何度も読み返して自分の言葉にしようとする。これは読み取る力(=読む力)と書く力。そして、この2つをもっともっと色んな言葉で表そうとするのが語彙力。

ただ、これらは気持ちがないと意味がないんだわ。だって、普段何にも聞いてくれない人に、ねぇちょっと聞いてって言われるのはうっとうしいし。俺は米津玄師好きだけど、パプリカいいよね。あの感じ。あの雰囲気良いよねって意味分かんないよね。笑

技術がなくても、気持ちがあれば、お互いに受け取ろうと努力できるから、国語を勉強するにあたって、頑張ってやっていこうね。頑張り方?それは1年かけて教えていくから焦らんように。

 

これも完璧ではないし、目の前で話しながら口調や言葉遣いも変わるだろうから、それこそ、目の前の人に何か贈り物をしようという気持ちで話していきたいなと思います。

 

ご飯を大盛りにするオバチャンの店は必ず繁盛する

行列のできる法律相談所クイズヘキサゴンなど、数々の番組で司会をされていた島田紳助さんの本です。

紳助さんの"感覚"を"経営哲学"として再編集したような内容で、良くも悪くも芸能人らしいものだと感じました。

自分が一番印象深かったのは、ラーメン屋さんをオープンさせる時に、麺とスープと具を3つ全く別の店から持ってきて掛け合わせるというとんでもない発想からラーメン作りを始めていったという話です。誰もが好きな人、好きな食べ物があると、あんな風になりたいとか、あんな風に作りたいと思って、今あるものを目標にしてしまいがちです。でも、その人をゴールにしてしまったら、その人を超えることはできないのです。

紳助さんの言葉を借りれば「単純なコピーは絶対にオリジナルを超えることはできない」です。

もう一つだけ紹介させてください。それは寿司屋(本文は鮨屋)の話です。その寿司屋の職人の腕はよく、ネタもいいし、値段もリーズナブルでした。でも常連になって「今日はこんなネタがあるんですけど」というのがたまに出てきたのが、日に日に増えていって、その分勘定が高くなってしまったということがあったのだそう。お店の人が「こいつは単価の高いものでも文句を言わずに食べてくれるだろう」という気持ちがあったかは分かりませんが、お客さんとして紳助さんが思ってしまったことで、お店に行かなくなってしまったのだそう。

タイトルの「オバチャン」もそうですが、どんな店も今は、安いから、たくさん食べられるから、という理由ではなく、安くたくさん振る舞ってくれる"亭主の気持ち"が嬉しいからという気持ちで常連になるという話は、飲食店に関わらず大切な発想なのだと感じました。

あと少し、もう少し

瀬尾まいこ、と聞いて反応するのは中高生だと思います。忘れている生徒がいたとしても「花曇りの向こう」というタイトルを聞けば、明生とか、梅干しのお菓子とか、いろんなことが思い出されるはずです。

前回読んだ小説が、三浦しをんさんの「風が強く吹いている」だったので、同じ駅伝の話なんだな、ぐらいで思っていましたが、大きな間違いでした。初めの主人公は内気でいじめられっ子気質の設楽。彼を中心に様々な登場人物が出てきて、最後に駅伝がスタートしたので、「2区」からはきっとそのまま走者が走るシーンが続いていくとばかり思っていました。

続く「2区」に入って、しばらくすると、再び先ほどのストーリーが、別の主人公大田の視点で始まるではありませんか。その後、6区まで大きなあらすじは変わることなく、ただしそれぞれの人物の視点で駅伝メンバーのことや顧問の上原先生を見てみると、それぞれの人物像がだんだん深みを増していき、同じ人物なのに違う印象をもつように変化していきました。

同じ人物でも、その人の置かれた環境や考えを追ってみると、違って見えるようになってくることが分かる作品。先生として、目の前の生徒を一面だけで判断してはならないと教えてくれた、とも言える作品でした。