先生、私たちでやります。

最近、部活動を見ていて、顧問である私が邪魔だと考えてか、題名のようなことを言うことがあります。ここで怒れば良いのですが、確かに自分が指導して彼女たちの力が伸びるとも思わないので、そうかと言って素直に引き下がります。ただ、ここに私の信念がしっかりと貫かれているなと改めて感じたのです。下記は2016年3月2日の投稿です。

 

仏様がある時、道ばたに立っていらっしゃると、一人の男が荷物をいっぱい積んだ車を引いて通りかかった。そこはたいへんなぬかるみであった。車は、そのぬかるみにはまってしまって、男が懸命に引くけれども、車は動こうともしない。男は汗びっしょりになって苦しんでいる。いつまでたっても、どうしても車は抜けない。その時、仏様は、しばらく男のようすを見ていらしたが、ちょっと指でその車におふれになった。その瞬間、車はすっとぬかるみから抜けて、からからと男は引いてしまった。

この話は、大村はま先生の『教えるということ』で取り上げられている奥田先生から教えられた話です。
ここでは、男が自分の力でついに大きな壁を乗り越えたと勘違いしたことに重点を置きます。もしこれが、仏様の力だと分かったら、仏様に対する信仰心はあつくなるものの、自分の能力は高まりません。その点、仏様の力とは知らずに成功を収めた彼は大きな成長を感じたのでした。
これは教育に大きく関わってきます。何何先生のおかげで、とか先生がいたからこそみたいな言葉をかけられると教師冥利につきるなと思います。でもそれは、もしかしたら思い上がりなのではないか。卒業してから5年後、10年後、初めて先生の思いが分かったり、最後まで分からなかったりするのが理想なのではないかと思うようになりました。
本音は感謝されたいですけどね。

 

今の部活動に話を戻すと、彼女たちにはこうなってほしいという思いをもって指導にあたっています。それは、①自分の考えをもて。②練習は人から与えられるのではなく、自分で必要だと思うことをやれ。③与えられた環境を上手く使え。です。この3つの思いを基に、題名の生徒の言葉を思い返すと、彼女たちとしては単に「顧問は指導者としては使えない。自分たちでやるしかない。」と考えているのかもしれませんが、無意識にしっかりと私の考えている方向に進んでくれているなと思うのです。

私は前面に立って、俺についてこい、俺の言うことを聞け、という指導はしたくありません。それは、生徒たちの考える力を奪うことになると思うからです。だから私の教育は間違っていない。そう思っているのです。

ただ、後悔もしています。もしかしたら自分の思いをもっと伝えられるようにした方が良いのではないか。その方が間違った方向に進んだ時、しっかりと道標になってあげられるのではないか。そう思って彼女たちを集めて話をしても、やはり心はこちらに向いていません。制御不能。私は間違っているのだろうかとやっぱり不安になってしまうのでした。