♯黒板エッセイ

高等学校の先生になった人が最初に読むべきこと

生徒へのメッセージと出版予定の書籍原稿をアップしています。出版社は決まっていません。教員12年目

年度末、異動を前に

今日は勤務校最後の日でした。残念ながら全く仕事ができませんでした。たくさんの卒業生が会いに来てくれたからです。どなたかに会うついでに私に声をかけてくれた程度だと思いますが、僕に会いに来てくれた!と感じることができました。

以前、担任としての経験をブログに書いたことがありました。(下記参照)

 

http://dzweb8823.hatenablog.com/entry/2017/02/26/214655

 

今回はHR以外のことをお話いたします。

1年目は総合学科の全国大会で、岐阜に行くチャンスがありました。高校生のあらゆる可能性と、愛知県総合学科の乏しさを痛感しました。絶望感に打ちひしがれながらも、私が目標とする先生と「自分たちにできることは何か?」を話しました。その時に出たものが2つありました。それは学校の魅力を伝える動画、パンフレットを作ることでした。この年、あらゆる先生の授業を見に行き、パワーポイントの自動再生で動画を作成しました。

2年目は当時の校長先生のご厚意で、全国連(全国高等学校国語教育研究連合会第46回研究大会愛知大会)の事務局へ参加しました。当前できることは何もなく、ただ会議の話を聞くだけでした。でも、事務局のメンバーはほとんどが当時校長先生、もしくは今現在、校長先生や教頭先生になられている方ばかりで、仕事量の多さと1つひとつの仕事に対する丁寧さに衝撃を受けました。今教育界を支えている人はこんなに凄いんだと強く感じ、次回の愛知大会では自分が貢献できるよう力をつけたいと固く誓いました。

3年目は以前からの夢だったパンフレット作りに着手し、私の周りにいる先生方に声をかけて特命チームを結成しました。それぞれがレイアウト、掲載内容などを細かく考えて、勤務時間外に会議を重ねてついに完成させました。その時、自分の仕事と同時進行でパンフレット作りに協力してくださった熱き想いを持つ先生方に囲まれて幸せを強く感じました。

同時にJRC(青少年赤十字)でもチャンスがありました。全国指導者講習会への参加です。各県で盛んに活動する先生方と寝食を共にして、自分の無力さにまた絶望しました。それでも何かできるのではと考え、学校内でのリーダーシップトレーニングセンターを企画しました。当時の3年生の手助けもあって、部員の意識が上がりました。今の学校ボランティアを支えているのは彼らと彼らの後輩です。

4年目はそのJRCで、今度は全国の指導者として前泊含む6泊7日のプログラムに参加しました。周りは年の離れた先輩の先生ばかり、同県の先生がいらっしゃいましたが、自分に自信が持てませんでした。でもセンター長を務めていた方からの「私にできたんだからあなたにもできます。」という言葉を胸に、自分にできることを精一杯務めました。全国へ帰っていった生徒たちはそれぞれの場所で頑張ったようで、彼らの活動が広報誌で記事にもなりました。生徒が先生を動かすという、新たな教育の力に気づいた瞬間でした。

最後の5年目は、愛知県JRCで指導者講習会の指導者になるチャンスがありました。今まで学んだことを同世代の先生に伝えるのは、本当に難しく最後までしっかり来ないまま終わってしまいました。来年度リベンジしたかっただけに後悔です。

 

こうやって、取り組んできたことを書き出してみると色んな経験をさせてもらったのだなと改めて感じました。これからも拒否せずに色んな経験を積んでいけるよう頑張ります。来年度もよろしくお願いします。

 

孤独死

ご近所さんが亡くなった。ひっそりと自宅で、一人ぼっちだったようです。その方は私が大学時代、アルバイトをしている時に、よく話しかけてくださった方でした。

ある時、私に向かって「私は宇宙と交信ができるの」と話し、この人は何者なのか?と疑ってしまいました。しかし、またある時、「この店はダメだ。知っている人がいても知らんぷり。人も商品も温もりがない。」と言われ、人の気持ちを第一に考える大切さを教わりました。

人は効率化を求めるあまり、人と関わりをおざなりにしてしまうことがあります。私も忙しい時は余裕がなくなってしまって、テキトーに対応してしまって後悔することがたくさんあります。人との関わり、これからより一層気をつけます。

人間力

先日久々に大学の恩師の家へ行き、ご馳走になりました。仕事からプライベートまで様々な話題に及び、4時間近くお邪魔していました。大変ご迷惑だったと思いますが、ご夫婦ともニコニコされていたので本当にありがたく思いました。

さて、その中で特に気になった話題が「人間力」という言葉です。あなたはこの言葉、どういう意味だと思いますか?

大学生に話を聞くと、「思いやり」や「気遣い」など道徳的な答えが多く出てきたとか。私が思う「人間力」は、どのような環境におかれても自分らしくいられる力です。私もそうですが、初めてであったり慣れなかったりする環境に身を置くと緊張して萎縮してしまいます。でも、私が見てきた教え子の中には、どんな環境でも自分を決して変えない人がいました。そういう人を見るたびに、自分もああならなければと思ってしまいます。

もうすぐ新年度。年度が変わり、生徒の顔ぶれも変わります。その中でも自分らしくやっていくこと、それが今年の目標です。

教え子の闘争

今日、第一志望大学の後期試験合格発表があった。私は同僚の先生とともに岡崎にある岩津天満宮へお礼参りに向かっていた。

車を運転しながらまだか、まだかと待ちながら連絡を心待ちにした。

昼食を食べようと店に入り、一息ついたところで、着信履歴があることに気がついた。結果は合格だった。

思えば今日のために、2年生の時からずっと見てきた。彼のためにやれたことは教科指導よりも、モチベーションの維持や勉強する場の雰囲気作りばかりで本当に力になれたかは分からない。でも、彼が無事合格を手にできた姿を見て、自分のことのように嬉しかった。

本当に色んな人に助けてもらって手に入れた成功。これからも決して驕ることなく、謙虚に力を尽くしていきたい。

飲み会についての考察

先日友人のブログを読んで、何かモヤモヤした気持ちを抱えたまま数日間を過ごしました。昨日、信頼できる友人たちと食事をした時に思ったことがいくつかあったので書き記したいと思います。

友人のブログです。↓↓

 

http://www.meg2.net/entry/2017/03/11/171518

 

これから話す内容は、飲み会とはこうあるべきという理想ではなく、こうしてほしいという願望でもありません。

社会人として感じたことがあります。それは飲み会が2種類あることです。1つ目は、人との繋がりを増やす場です。全く知らない人たちと関わりを持ち、何かがあった時に「会ったことがある」ことで助けてもらったり仲良くさせてもらったりするためです。「ためです」というと、そのため「だけ」に、会に参加しているようなイメージを持たれるかもしれませんが、私は単純に色んな人と知り合いになりたい気持ちが強いです。私の業界のトップランナーの方々の話は面白いですからね。

2つ目は、本音を言う(聞く)場です。こちらが友人の話題にあがっていた内容です。お互いにこの場を有効活用できていれば不満はないのですが、それはほとんどないと思います。大学時代はひたすら、仲良しと潰れるまで飲んでいられましたが、社会人同士ではなかなか難しいのが現実です。私の周りには職場での「仲良し」がいるため今でもそういう飲み方ができており、貴重なのかもしれません。きっと話題になっていた「定期的に催される職場の人との飲み会」も本音を言う会に違いないのですが、それは自分たち若手にとってではなかったのだと推測します。「普段は中々言えないことを伝えて、相手がどう思っているのかを知りたい」「そもそもみんなとワイワイやって、普段のような気を遣いたくない」そんなことを思って上の世代は飲み会に参加しているのではないかと感じることがよくあります。感じることで参加しづらくなる訳ではありません。でも飲み会は、自分のような下の世代にとっては100%本音を言える場ではないし、言ってはいけないような気さえするのです。私が本当に信頼している先輩方との飲み会ならば、そんなことを考えないのですが。

飲み会は難しいですが、いずれは自分が煙たがられる存在になることは間違いなく、きっとその時に異なる世代の人と関係性を保つ方法の一つとして飲み会を選ぶのだと思います。どうすれば皆が心から楽しめる会になるのでしょうか。日々モヤモヤしています。

トランスジェンダーについて

先日、「彼らが本気で編むときは、」という映画を観てきました。

 

http://kareamu.com/sp/about/story.html

 

このストーリーはトランスジェンダー育児放棄認知症を抱える登場人物に対しての私たちの認識の在り方を問題提起するような作品でした。私は元々、生徒が課題研究でLGBTを研究していたこともあって、その存在と知識は少なからず持っていました。しかし、ドキュメンタリー調で展開されるストーリーは考えさせられることばかりでした。自分の無知さを思い知らされ、いかに狭い視野で人を見ているのかと痛感させられました。

LGBTとは、レズビアン、ゲイ、バイセクシャルトランスジェンダーの頭文字です。

人には理解されずに苦しむ人、自分さえも理解できずに今日も苦しみ続ける人、自分の周りにはそんな人が20人に1人の確率でいるようなのです。杓子定規ではなく、人を「理解できないおかしな人」ではなく、どのような人なのかを見つめ、考え、理解することを私は心がけていきます。