♯黒板エッセイ

高等学校の先生になった人が最初に読むべきこと

生徒へのメッセージと出版予定の書籍原稿をアップしています。出版社は決まっていません。教員12年目

文化の日

こんばんは。今日も暇だったので更新です。文化の日は由来が考え付かなかったので、観念して調べました。すると、やっぱり由来はありませんでした。

元々日本国憲法の交付日であった今日は、それまでは明治節、つまり明治天皇の誕生日だったと言われています。という言い方よりも、明治節だった日に交付日をあてたという言い方の方が正しいかもしれません。だから、この日に文化の日という由来は全くないという書き方が多く見られました。

果たしてそうでしょうか?

確かにGHQからテキトーに名付けられた祝日という意味では、文化の日に意味がないと思うかもしれません。しかし、今日が文化の日だからこそ、文化を意識するきっかけになったという人がいるのも事実です。何でも後ろ向きに考えるのではなく、一度前向きに考えてみてそれでも疑問を抱くようであれば、声高らかに「おかしい」と主張すべきだと思います。

それで私がしたことは、竜泉寺の湯へ行ったことです。風呂文化は最高でした。そしてエレベーターでの譲り合い、感謝の言葉は、まさに日本文化の優しさを感じた瞬間でした。

日本って本当に良いですね。

先見の明

先見の明がある、という言葉があります。よく「先見の目」と誤って使われることが多い言葉です。

学校で仕事をしていてよく思うのは、優れた先生は、先見の明がある人だということです。それは、単に先を見通す力を持っていて仕事ができるという意味でなく、生徒を見て最適の道が提供できるという意味です。

私が高校3年生の時、担任の先生から「滑り止めの大学はどうするかね?」と聞かれました。そこで何も考えていなかった私は「国語の先生になれるどこですか?」と聞きました。それが、私の出身となった愛知大学でした。その時は、ブランド力や、キャンパスの雰囲気から、地元の教育大の受験を取りやめ、日本海側の国立基幹的総合大学への進学しか頭にありませんでした。そのため第一志望を落ちた時には絶望感に襲われました。

しかし、それを救ってくださったのが、私が絶対に譲れなかった「国語の先生になる」という目標と、そのための道を残してくださった担任の先生の存在でした。担任の先生はそこまで考えて、進路指導をしてくださっていたのです。もしかしたら落ちることも予想していたのではとも思ってしまいます。

今、3年生の担任として進路指導をしています。そこまでのことを考えて指導しようと思っても、全く先が見えず、せいぜい志望理由を書かせて、大学で何を頑張り、将来はどんな力を付けてどんな仕事をしたいかを言葉にするのが精一杯の抵抗です。本当に本人のためになっているのか。それは数年後にならなければ分かりません。もしかしたら、今やっていることが本人にとって間違いの可能性もあります。それでも今できることをやるしかないのです。

先見の明は、やはり経験によってのみ付くのでしょうか?そんな疑問を感じながら、今日も色んな先生に相談しまくるのでした。

行きつけ

私には行きつけの店が3店舗ありました。しかしこの度の事件で、1つは外すこととなりました。

そもそも行きつけの店とは、暖香 豊田逢妻店、竜泉寺の湯 豊田浄水店、ともう1つでした。

最後の1つはラーメン屋で、もともと接客が良くないことで有名でしたが、それでも味は好きだったから我慢して行っていました。地元には二郎系ラーメンがなく、この店こそ私の求めていた店だと思っていました。

発端はポイントカードでした。

会計の終わった後、店頭に置いてあるポイントカードを手に取って、「これもらってもいいですか?」と聞きました。すると、「良いですよ。」と言ってくれましたが、ポイントを押してくれませんでした。タイミングが悪かったんだろう…と、思いながらポイントを貯め続けました。

そのポイントカードは5点で煮卵無料プレゼント、10点でトッピング全のせ無料プレゼントでした。そこで私は7ポイントの今日、煮卵を頂戴しました。

会計時、ポイントカードを返してくれないことに気づき、「カードは?」と聞いたところ、「カードは出してもらったらまた1からになります。」と言われてしまいました。更に新しいカードを渡すこともなく、ありがとうございましたの大合唱で退店させられてしまいました。

たまたま来た客に対して、アルバイトがたまたま失礼な接客をしてしまうのは仕方ないと思います。(本当はそれも許せないですが。)常連客に対してこのような接客しかできない店は最低だと思います。もうこの店には行けません。高浜にも、豊田市駅の近くにもチェーン店がありますが、それらはどうなのでしょうか。心配です。この店も含めて、もっと接客態度を見直してくれることを期待しています。

 

https://s.tabelog.com/aichi/A2305/A230501/23053465/

 

http://ryusenjinoyu.com/josui/

 

 

ゆとり

またゆとり世代をバカにする番組をやっていた。ゆとり世代の非常識なことを取り上げて批判する上の世代も、それはゆとりだからと開き直るゆとり世代も嫌いだ。そんなことしてるからこの国が悪くなる。腹が立つ。

もっと前向きな番組が作れないのか。本当に腹が立つ。

無常観

こんばんは。今月末、方丈記を題材とした研究授業が決まっています。方丈記といえば、私が教育実習で行なった思い出の単元です。そこで今回は無常観についてお話しします。

無常観とは、簡単に言えば「世の中のもの全ては変化する。不変のものは存在しない。」という考え方です。方丈記ではそれを厭世的に、つまり「だからもう何にもやんなくていいよー」と述べ、徒然草では感傷的に、つまり「しみじみともの寂しさを感じちゃうなぁ」と述べています。他にも平家物語、人間五十年で有名な敦盛などでも貫かれている考え方なのですが、この無常観はそれだけの意味ではありません。

実は、形が失われていくそんな所にも、ものの美しさを感じてしまうという日本人の美意識が隠れているのです。これはあくまで一説です。例えば日本人が好きな桜は、咲くまでに「まだかなまだかな」と私たちをワクワクさせ、1つ花が咲くと「もう少しで満開だね。もうこんなに綺麗だ。」と感動し、満開の頃には「風よ吹くな。雨よ降るな。1日でも長く見たい。」と願い、散り始めの頃は「花びらが舞う姿も美しい。」としみじみ感じ入ってしまいます。

この最後に述べた散り始めの姿は、まさに無常観を表しており、最盛期を過ぎて失われていってもなお美しいと感じる独特の感性があるのです。

女性もそうですね。最初はスカートが可愛らしい、美しいと感じられていたのが、段々年を重ねると着物が似合う色っぽさを持つようになり、腰が曲がっても凛とした姿に感動を覚えてしまいます。男性もそういった面はありますが、女性ほどの魅力はないように思います。

姿形が変わっても、それがまた良いと感じられる人、そんな人になりたいですね。

井村雅代コーチの結果を出す力

久々に本を読みました。表題の通りです。

この方の本は一時間で読めてしまいました。様々な名言が収録されており、教室にいくつか貼っておこうと思ったほどです。

例えば、「できない」わけがない。なぜなら「できるまでやる」から。

チームのレベルは、中間ではなくトップに合わせる。

自分の心を感動させられない人間が、他人の心を動かせるわけがない。

などです。

 

もう一つこの本を読んで感じたことは、井村さんはゆとり世代をよく分析されているということです。以下抜粋。

 

私は、「チームワーク」という言葉ほど、手抜き人間を生み出す言葉はないと考えています。今の若い子たちは、「チームワーク」と「絆」という言葉が好きです。でも、裏を返せば、もし自分が何か失敗をしても、誰かがそれをカバーしてくれると思っている。自分の苦手なことや短所を、まわりの人が補ってくれると思っているのです。

 

確かに私もそんな考え方を持っていました。大切なことはそれぞれが100パーセントを出せたらきっと結果は付いてくるということです。井村さんは「チームワーク」について批判的な意見を述べているのだと思っていました。しかし、私たちの「チームワーク」の考え方が良くないという指摘であることに気づきました。私たちはそれを、できる人ができない人を教えたり助けたりすることだと思っています。でも井村さんは、一人ひとりが全力を出し切ることで、できない人をなくし、より高いチームワークを生み出そうとしていることが大切だとしています。

どのような形が良いのかは自分で考えなければなりませんが、その志を行動に移したいと思います。

 

協賛金

先日出身大学の落研から、50周年記念総会のお知らせが来ました。これは出席せねばと思って会費10000円を振り込みました。そのあと気づいたのです。会費は当日支払いで、振り込みは協賛で広告を載せたい人はお願いします!という類のものだったことに。

まぁいいか。知らない人に振り込むわけじゃないし、と思いながらも何の広告を出そうか悩み続けています。きっと出てこないまま当日を迎えるのでしょう。

思えば新聞やテレビの広告は何気なく見ていて、大したもんじゃないと思っていましたが、いざ自分がどうするか?となると真剣に考えてしまいますね。その広告が誰かの目に触れて何かアクションを起こすかもしれない、そんな可能性だってあるのです。難しいですね。

そういえばこの、誰かが何かアクションを起こすかもしれないという発想は先生である私にとって一番大切なことだと思っています。それは、私の一言で生徒の人生が良くも悪くもなる可能性があるからです。たまに、いじめ自殺のニュースが流れると、なぜ先生はそんなこと言ったんだ!とか批判されている記事を目にします。あれはこっちからしてみれば、職場にいる時は1秒たりとも気を抜かず言葉を選んで話をしなければならないという無茶な要求だと感じてしまいます。でも事実、先生の言葉は重みがあるのだから気をつけなければと身を引き締めるきっかけにもなっています。

この記事も含めて、誰かに悪い影響が出ないことを願って、言葉を発信し続けます。そしてもし広告の良いアイデアがあったらください 笑