♯黒板エッセイ

高等学校の先生になった人が最初に読むべきこと

生徒へのメッセージと出版予定の書籍原稿をアップしています。出版社は決まっていません。教員12年目

【キャリア教育】なぜ古典の先生はネットの訳を嫌うのか?

◯情報社会の現状
今週は、先生の視点から、世の中で問われる力について考えていきたいと思います。
私は専門教科が国語ですから、主に現代文と古典について指導できます。(書道については免許を持っていないので、厳密には教えることができませんが、中学校では教えました。)だから、従来型の一斉講義を行うにあたり、題材となる文の現代語訳や文法的意味は最低限必要となります。そしてこの部分を予習して授業へ臨むことを前提としています。
先日、現代語訳を聞いた時に「ネットにこう書いてあったので」と言われ、またかと思ってしまいました。そうです。特に古典を扱う時には、現代語訳も、文法的説明もネットを検索すれば出てくるのです。
だとしたら、私たち先生は、ネットを禁止して勉強させれば良いのか?という問題に直面するわけです。

そんな中、キングコング西野亮廣さんがラジオでこんなことをおっしゃっていました。

この話には大きく分けて2つの話題があります。1つが「ストーリーの面白さ」について、もう1つが「話し手の方が、ご自身で体験されて得た情報、体験談」つまり、「一次情報」です。まずは、これらを授業に置き換えて考えていきたいと思います。


◯授業構成で大切なこと
今までは、知識を頭に入れ、それを素早く正確に引き出す力が身につけられれば大学入試を突破することができました。しかし、最近の大学入試を見ていると、(特に共通テスト試行問題)筆者が言っていることをどう活用できるか?という能力が問われているように思います。
例えば、筆者が言いたいことはこう。ではこれを基に話し合いをした時、論点がズレている人を選べ、みたいな。
だからまず、情報を正しく獲得し、その上でどう活用するかという2つの方法を授業では扱わなければならないということです。長らく古典の授業では、辞書や文法書を引くことで情報を獲得することと、その情報を基に現代語訳することで活用法を身につけるということをさせてきたし、授業がその確認作業になることは大きくは変わらないのだろうと思います。


◯古典嫌いはなぜ生まれるか?
そういったことの繰り返しになると、単純だし、何のためにやっているのかが分からなくなってきます。もし仮にできるようになったとしても、将来に役立つのか?と聞かれたら、ほとんどの人が古典とは無縁の生活を送るため「役に立たない」と答えてしまいます。
このような理由で古典嫌いが誕生し、生徒も先生も苦しい思いをしながら3年間を過ごさなければならないのです。この時大切になってくるのが、西野さんの「ストーリーの面白さ」ということになってくるわけです。


◯勉強で大切なことは、興味をもつこと
学習に取り掛かる時に最も大切なことは、そのことに興味をもっているかどうかということ。それは好き嫌いではありません。恋愛で例えればよく分かります。大好きな異性が「炎炎ノ消防隊」が好きだと聞けば、それを観ようとするし、「NiziUのMAKOさんって素敵だよね」という話が聞こえてくれば、「にじゅー まこ」ってメモを取って検索します。大学に置き換えると、〇〇大学へ行きたいから、過去問を見たらやたら数学のこの分野が出題されているから頑張って解くか!という思考になるということです。
この興味をもつためには、詳しい説明を省いた、場合によっては事実とは異なる説明をしなければなりません。YouTuberであれば、多少事実とは異なっても面白ければ良いという風潮がありますが、授業ではそうはいきません。面白いと思えるし、事実もきちんと踏まえているという必要があるのです。(この面白さを重視しすぎた結果、授業の初めに前回の訂正から入るというのが私の悪い癖です)


◯ここまでの結論
ここまでの結論は、古典の入試突破力をつけるためには、やはり辞書や文法書を引くことや現代語訳が基礎・基本となる。しかし、それをやりすぎると古典嫌いを招く。そのために事実も踏まえて興味をもてる授業を展開すべき。これが世の中で求められる力に通ずるということです。ではこれらを踏まえて、初めの話題に戻ります。


◯先生は、ネットを禁止して勉強させれば良いのか?
さて、現代語訳をネットで調べてきた生徒に話を戻します。これまでの話を踏まえれば、やっていることは明らかに力がつかない方法なので、当然やめにしなさいと言わなければなりません。でも、この生徒にはその一言だけでは足りません。ネットを禁止すると、友人のノートを写すという行動に走るからです。どうすれば良いのでしょうか?
私の答えは、「何でもOK」です。もっと言うと、ネットでも友達でも教科書ガイドでも使ってOKです。「ただし、なぜその訳になるかを説明できるようにしておけ」という言葉も添えます。この説明を考える作業が勉強であり、説明する力が活用力そのものだからです。サイトによっては、教科書ガイド以上に分かりやすく解説されているものもあって、授業で紹介することもありますが、中には雑なものもあります。この"雑なもの"は間違った情報ではなく、先程「勉強で大切なことは、興味をもつこと」を目的として書かれたものに過ぎない情報であることを理解しなければなりません。先生の多くはここを見落としています。
ゆえにこれからの時代は「ネットも見なさい」「辞書も見なさい」なのだと思います。


◯世の中が捉える二次情報と、学校が求める二次情報
こうやってみると、西野さんの言う一次情報は、学校では扱わないことに気づきます。確かに教科書を一次情報としても良いのですが、話し手(教科書の作り手)の方が、ご自身で体験されて得た情報、体験談が教科書かというとそうではないし、入試問題も先生の授業も全て二次情報だからです。強いて言うなら、志望理由や小論文を書く時に初めて一次情報が必要になってきます。
だから世の中で生き抜くためには、一次情報にアクセスしろ、言い換えれば、その経験をした人から話を聞け、その人の本を読めということだけれど、高校・大学・専門学校へ進学する場合は二次情報の運用方法を身につけろ、言い換えれば、情報を使って相手の求めるものが説明できるように、作れるようにしておけということだと思います。
私のブログは一次情報と二次情報は混同しているのでアクセス数が伸びないし、分かりにくいと思います。これからはこの2つを明確にしながら文章が書ければ良いなと思います。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


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