♯黒板エッセイ

高等学校の先生になった人が最初に読むべきこと

生徒へのメッセージと出版予定の書籍原稿をアップしています。出版社は決まっていません。教員12年目

教え子の闘争

今日、第一志望大学の後期試験合格発表があった。私は同僚の先生とともに岡崎にある岩津天満宮へお礼参りに向かっていた。

車を運転しながらまだか、まだかと待ちながら連絡を心待ちにした。

昼食を食べようと店に入り、一息ついたところで、着信履歴があることに気がついた。結果は合格だった。

思えば今日のために、2年生の時からずっと見てきた。彼のためにやれたことは教科指導よりも、モチベーションの維持や勉強する場の雰囲気作りばかりで本当に力になれたかは分からない。でも、彼が無事合格を手にできた姿を見て、自分のことのように嬉しかった。

本当に色んな人に助けてもらって手に入れた成功。これからも決して驕ることなく、謙虚に力を尽くしていきたい。

飲み会についての考察

先日友人のブログを読んで、何かモヤモヤした気持ちを抱えたまま数日間を過ごしました。昨日、信頼できる友人たちと食事をした時に思ったことがいくつかあったので書き記したいと思います。

友人のブログです。↓↓

 

http://www.meg2.net/entry/2017/03/11/171518

 

これから話す内容は、飲み会とはこうあるべきという理想ではなく、こうしてほしいという願望でもありません。

社会人として感じたことがあります。それは飲み会が2種類あることです。1つ目は、人との繋がりを増やす場です。全く知らない人たちと関わりを持ち、何かがあった時に「会ったことがある」ことで助けてもらったり仲良くさせてもらったりするためです。「ためです」というと、そのため「だけ」に、会に参加しているようなイメージを持たれるかもしれませんが、私は単純に色んな人と知り合いになりたい気持ちが強いです。私の業界のトップランナーの方々の話は面白いですからね。

2つ目は、本音を言う(聞く)場です。こちらが友人の話題にあがっていた内容です。お互いにこの場を有効活用できていれば不満はないのですが、それはほとんどないと思います。大学時代はひたすら、仲良しと潰れるまで飲んでいられましたが、社会人同士ではなかなか難しいのが現実です。私の周りには職場での「仲良し」がいるため今でもそういう飲み方ができており、貴重なのかもしれません。きっと話題になっていた「定期的に催される職場の人との飲み会」も本音を言う会に違いないのですが、それは自分たち若手にとってではなかったのだと推測します。「普段は中々言えないことを伝えて、相手がどう思っているのかを知りたい」「そもそもみんなとワイワイやって、普段のような気を遣いたくない」そんなことを思って上の世代は飲み会に参加しているのではないかと感じることがよくあります。感じることで参加しづらくなる訳ではありません。でも飲み会は、自分のような下の世代にとっては100%本音を言える場ではないし、言ってはいけないような気さえするのです。私が本当に信頼している先輩方との飲み会ならば、そんなことを考えないのですが。

飲み会は難しいですが、いずれは自分が煙たがられる存在になることは間違いなく、きっとその時に異なる世代の人と関係性を保つ方法の一つとして飲み会を選ぶのだと思います。どうすれば皆が心から楽しめる会になるのでしょうか。日々モヤモヤしています。

トランスジェンダーについて

先日、「彼らが本気で編むときは、」という映画を観てきました。

 

http://kareamu.com/sp/about/story.html

 

このストーリーはトランスジェンダー育児放棄認知症を抱える登場人物に対しての私たちの認識の在り方を問題提起するような作品でした。私は元々、生徒が課題研究でLGBTを研究していたこともあって、その存在と知識は少なからず持っていました。しかし、ドキュメンタリー調で展開されるストーリーは考えさせられることばかりでした。自分の無知さを思い知らされ、いかに狭い視野で人を見ているのかと痛感させられました。

LGBTとは、レズビアン、ゲイ、バイセクシャルトランスジェンダーの頭文字です。

人には理解されずに苦しむ人、自分さえも理解できずに今日も苦しみ続ける人、自分の周りにはそんな人が20人に1人の確率でいるようなのです。杓子定規ではなく、人を「理解できないおかしな人」ではなく、どのような人なのかを見つめ、考え、理解することを私は心がけていきます。

担任最後の言葉

みんな、お疲れ様でした。やっぱり泣いてしまいました。笑

こうやって終えられたことを本当に良かったなと思います。

 

<中略>書類等の配付を行う

 

では最後に、みんなに向けて最後のメッセージを送ります。「ひとりだち」という言葉があります。この言葉は、世間では「1人で何でもできるようになること。1人でやろうという気持ちを持つこと。」を表す言葉だと言われています。

でも私は社会人になってから、その意味に加えて、もう1つ意味があると思うようになりました。それは、「1人でやろうという気持ちを持っている人には、必ず周りの色んな人がその人を助けようとしてくださる。」ということです。なかなか最初は、全力で頑張ろうと思っていても、誰かに頼らざるを得ません。また、自分に力がついたとしても、誰かと協力して取り組まなければならないことが必ず出て来ます。そんな時に周りにたくさんの協力者がいたら本当に心強いのです。

もちろん、初めから他力本願で自分を棚に上げるような人物ならば、誰も手を貸してくれません。自分のできることを全て全力で取り組むこと、そしてそれを見た周りの人が「何かできることはない?」と言ってきた時に、素直に助けてもらうこと、これが「ひとりだち」なのだと思います。

このことを忘れず、それぞれを道をしっかり歩んでください。もちろん私は、いつまでもあなたたちの担任ですので、何か不安なことがあったり悩むことがあったりしたらいつでも連絡してください、会いにきてください。待っています。

 

出典:平成29年3月1日 担任講話

卒業直前

いよいよ3/1に卒業式を迎えます。初めて教員として3年間持ち上がってきて、本当に充実していました。

3年前、2年生、3年生と副担任として持ち上がってきた時、担任団としてこの学年のために何かしたかったという思いを強く感じました。特に私は当時プレゼンテーション能力を育てる仕事をしていたので、3年後はもっとレベルアップして、みんながワクワクするような話ができる生徒をたくさん育てたいと強く思いました。また、自分のHRだけでなく学年全体のことを考えてメッセージをたくさん送りたいと思うようになりました。

1年生、初めての担任で副担任の先生は大ベテランでした。何もかもやりたいようにやらせてくだって、それでも手の届かないところには必ずフォローに入って、全面バックアップしてくださいました。学年としての目標が定まらないまま進んでいきそうだったので、全員に積極的に発表の機会を!と提案して、自分のことを自分で語る練習をたくさんさせました。

2年生、同年代の副担任の先生と、更にやりたいことを追求しました。ベテランの先生が抜け、誰に頼ったら良いか分からないと生徒から言われました。でも根気強く朝から晩まで仕事に打ち込みました。自分にできることはあまりないかもしれないけれど、この学年が同じベクトルを向けるよう必死で頑張りました。

3年生、生徒指導上最も信頼していた先生が抜けました。学年全体に締まりがなく何度も苦しく思いました。でも全力でやってくださる先生方を見て、自分も抜けた先生の代わりの一部になろうと努力しました。HRでは明らかに進路実績を残す目的で作られた集団を任され、この学校最強の進路指導の先生が副担任につきました。不安はありましたが、同時に自信もありました。これまでやってきたことを証明してやろうとも思いました。

そうやってあっという間に過ぎた3年間。良かったか悪かったかは分かりません。でも一つ言えることは、何一つ悔いなくやり切れたということです。他人から何と言われようとも自分ができる100%を出し切れたこと、それが一番の誇りです。

卒業式、生徒がどんな気持ちを示してくれるか。一方通行の愛情で終わらないことを祈ります。

送る会

今日は定年を迎える先生方の送る会でした。約70人の方が一堂に会して、盛大に催されました。私も久々に会う方がたくさんいらっしゃって本当に充実していました。

こうやって送られる立場になった時、自分はどれだけの人に祝ってもらえるのだろうと思うと、まだまだたくさんの人たちと関わる必要があるなと感じました。関わりがあると言って、たくさん会えるとは限りませんが、やはりどこかで繋がっているとどこかでまた一緒になったり、助けてもらえたりします。色んな方ももっとお知り合いになれるよう頑張りたいと思います。

おもてなし

こんばんは。昨日、4ヶ月遅れの誕生日プレゼントを女性陣からいただきました。本当に感謝です。ありがとうございました。

人の優しさに触れることはよくあります。特にそれがたまたま出会った人ならば余計に嬉しく感じます。あるサービスエリアのスタバでは、注文をしなかった私に対してよろしければコーヒーをどうぞ!と試飲のコーヒーを差し出してくれました。あるホテルでは到着早々、大変でしたね。荷物お持ちしますよ、長旅だったんですから。と荷物を持ってくれました。

どちらの方にも共通することは、試飲をしてもらう、荷物を運ぶというせねばならない仕事に「自分の言葉、想い」を乗せていたことです。目の前のことに一生懸命になりすぎると、すべきことしかできずに日々が過ぎていってしまいます。でも人と接する仕事に就くならば、やはり仕事に自分の流儀を加えて取り組むことを心がけるべきだと思います。