♯黒板エッセイ

高等学校の先生になった人が最初に読むべきこと

生徒へのメッセージと出版予定の書籍原稿をアップしています。出版社は決まっていません。教員12年目

ルーティーン

こんばんは。先日、HRの生徒の1人が「先生!帰りのSTをやりたいです」と言ってきました。彼は教員を目指しているのではありません。毎日私のモノマネをすべく徹底的に研究しており、その成果を見せたいということでした。

副担任の先生にも許可を取って、いよいよ帰りの時間、STをお任せしました。

「エスティー!」「…」(無言で見つめ、身だしなみを直させる)「はい、ホワイトボードの通り、〇〇指導業後にあります。よろしくお願いします。それから提出物しっかり出して帰るように。」「私からは以上です。〇〇先生、何かありますか?」

こんな感じでした。しかも話し方も完全コピーして再現してくれました。教室内は爆笑の渦に包まれ、私も再現度の高さに思わず吹き出してしまいました。

しかし思ったことはそれだけではありません。私はこのルーティーンを1年間ほぼ崩すことなく続けていることに気づいたのです。私は直接言葉で指示することを極端に嫌うので、まずは席につけ!のエスティー!という掛け声。そして机の上に荷物を置かず身だしなみがきちんと整った状態になってからしか話し始めないという流儀を通すため、無言で見つめる動作をします。それゆえ、そういった一つひとつは、私だけの当たり前の流れではなく、HRの生徒にとっても当たり前の流れになっていたようなのです。良い習慣を身につけるためには、私たちがいかにして良い習慣を粘り強く指導するかを考えていかなければならないですね。

インフルエンザ

こんばんは。今日は久々に外へ出かけたのでもう眠いです。少しだけお話ししましょう。

1週間前からインフルエンザが大流行しました。おかげで至る所で代役を務め、正直しんどいなと思う場面も何度かありました。でも私は全く健康上問題なく、自分の周りにも不健康にならないよう最大限努力しました。

その関連で言えば、やはり青少年赤十字でしょう。私の携わる青少年赤十字の行動目標は、健康安全、奉仕、国際理解親善です。これは人の役に立つ以前に、自分の健康に留意して活動することを大切にしていることを表しています。どうしても、青少年赤十字はボランティアで、人の役に立つために尽くすことだと思われがちです。でも一番大切なのは、そういう意味で人を思いやることではなく、自分自身を「思いやる」ことだということなのだと思います。

同じことがAED(自動体外式除細動器)の使い方でも言えます。この機器を使う時に一番初めに行うことは、傷病者発見後すぐに近寄るのではなく、周囲に危険がないかを確認してから近寄ることだと教わります。つまり、人に何かをしなければという責任感を持つことよりも、まず自分が心身ともに健康であることこそが大事なのだということです。

健康第一。明日からも頑張ります。

生徒から見た先生

こんばんは。昨日生徒と、先生の評判について話をしていました。建前だと思いますが、先生は一生懸命な良い先生ですとも言ってもらいました。例え嘘でも嬉しかったです。

彼ら(彼女ら)の話を聞くと、先生に不満を持つ瞬間で圧倒的に多いのは、面倒くさがる反応をされた時のようです。先生の仕事は、決まった仕事に加えて突発的な出来事に対しての仕事もあります。例えば、明日期限の書類を作成しようと座ったら、国語の勉強を教えてくださいと生徒が言ってきて、行こうとしたら外部から電話が来て対応に追われるといった具合です。こちらが仮に忙しくて、話す余裕がなくても、生徒の方は悩みに悩んで相談に来るため無下にはできません。それを頭で分かっていてもなかなか話をじっくり聞くところまではいけないのです。でもそれが評判につながっているとは無情なことです。読者の方に勘違いしてもらいたくないので言いますが、決して私は生徒の理想とする教師になるべきだとは思っていません。でも、意を決して私の元へ来た生徒を何も考えずに突き返してしまうのはいけないなと反省したのです。

昨日話していた生徒曰く、先生は対応できなかったときに謝るから良いんだよとフォローを入れてくれましたが、生徒を第一に考えるならばいつ何時でも話ができるぐらいの余裕を持たなければならないと思いました。

追加でもう1つの話を紹介しましょう。私の尊敬する大師匠は、75歳になった今でも教え子からの連絡に一つひとつ丁寧に答えているそうです。大学講師時代にお世話になった私にも丁寧な手紙を送ってくださるほどです。大師匠の姿を見て、大切なことは卒業してからもずっと教え子として彼ら(彼女ら)の先生としていることだと気づきました。卒業したからといって縁を切るのではなく、いつまでも困った時には気軽に相談に乗れるそんな存在になりたいなと思っています。

褒めちぎる教習所は本当に時代に合っているのか?

こんばんは。センター試験が無事終わりましたね。私は寒さに震え、アスファルトの上でヘッドスライディングを決め、両手に大きな傷を負いました。皿洗いができませんでした。ごめんなさい。

さて、テーマにあるものはフジテレビのフルタチさんで扱われていたものです。詳しく説明すると、今の若者は叱られたくなく、車離れ、少子化が進んでいるため、褒めることで成績を伸ばす教習所が出てきたようなのです。実際に受講者も合格率も伸びているため、間違ったことではないように思われます。

ただ、この方法が時代に合っているという考えには私は納得いきません。それならば叱る先生たちを否定することになるからです。

自分が高校生の時や、今の高校生の話では、叱られた理由がはっきりしない、基準がわからない先生に対しては反発心を持ってしまいますが、それ以外は叱られて良かったと思うのです。

私の尊敬する先生は、怒ってもいいとも言われました。叱ることは、その人のためを思って間違いを指摘することですが、怒ることは感情的になることです。本当に悪いことをした時、もうこんなこと二度とするもんか!という気持ちを強く持たせるためには、波平さんのようなカミナリも必要なのかもしれません。

ただ、怒鳴ることに関しては悩んでいます。生徒によっては前向きに働くこともありますが、トラウマに感じたりそこから保護者との信頼関係が崩れたりするおそれがあるからです。私が怒鳴る基準は、完全に部屋の広さです。狭い部屋では決して怒鳴りません。あ、怒鳴ったことはありますが、怒鳴らないようにしています。体育館や視聴覚室などの広い部屋では本気で怒鳴ります。

叱る、怒る、怒鳴る。褒めるとともに教育において考えさせられる行動の1つに間違いはないようです。

センター試験

こんばんは。今日はセンター試験でした。私の感覚では地歴公民2科目受験から始まるのがセンター試験だと思っていましたが、必ずしもそうではないようです。

私が約10年前にセンター試験を受けた時には、とにかく必死でした。だんだん疲れてきて、それでも目の前の問題を解き切らなければならなくて、本当にしんどかった思い出があります。自己採点も、思うように古典の点数が取れず落ち込んでしまったことだけを鮮明に覚えています。

そんな時、モチベーションにつながっていたのは、当時目指していた大学のプロモーションビデオでした。大学の楽しそうな学生の姿を見て、自分もこの大学へ4月から行くんだという気持ちで頑張りました。

結局その大学へは行けず、落ち込んでしまいましたが、その時に何とか最後までやろうと努力した経験は今の自分の前向きさにつながっています。

私のクラスの生徒には、どんな結果が来ても将来に向けて前向きに頑張って欲しいと願うばかりです。第一志望合格はもちろんですが。

 

AI教師は脅威か?

こんばんは。先程ぼーっとNHKニュースを見ていたら、AI教師のニュースが取り上げられていました。以下の記事はNHKではないですが、その内容です。

 

https://r25.jp/it/00052246/

 

AIは発展を続け、やがて人間はAIに操られる時代がやってくると言われており、危機感を抱く人も少なからずいます。一方この記事を読むと、教師の多忙さを軽減する役割を果たすため、活躍が期待されると述べています。AIがどこまで進化し続けるかは分かりませんが、私たち「人間」教師の役割は、やはり目の前の人のために何ができるかを自分たちも模索し、生徒たちにも考えさせることなのだろうと考えています。

今は近くにいてもスマホで会話をする時代です。それは、10年前に流行った「略語を使って自分たちだけで会話を楽しむ」ような感覚に似たものだと思っていました。しかし、最近では生身の人間と話すことを避ける人が多くなり、昼休みの時間も友達と話さずひたすらスマホゲームをやり続ける生徒も多く見受けられるようになりました。

もし仮に知識的な学習が全てAIに奪われたとしたら、私たち「人間」教師は胸を張って、人との繋がりを大切にしなさいだとか、直接話をたくさん聞いて自分の意見を話して、コミュニケーションを取りなさいと指導できるのでしょうか?これはAIに仕事が奪われなかったとしても問題意識として持ち続けるべきものだと考えます。

人との繋がりの大切さを感じ、伝えられるために、20代から色んな所に顔を出しておこう。そう決意を新たにした瞬間でした。

小説 君の名は。

こんなにも昨年話題になっていたのに、小説はおろか、映画さえ観ていなかったので、小説→映画の順で観ようと思いました。映画は一人で行くのが寂しいので、一緒に行ってくれる人を探しています。映画が間に合わなかったらDVD買います。

内容はネタバレになってしまうので話しませんが、考えたことをお話いたします。普通に生活していて、自分は経験したことがないのに、あたかも経験したことがあるかのような感覚を持つことがあります。例えば、ネクタイを初めて締めたとき、普通の人は息苦しさを感じるのだと言いますが、私は不思議と落ち着きました。また、父親がこどもの頃にこの学校行きたいなと思った大学を、示し合わせもなく受験することになり、父親が驚いたということもありました。

理系の友達には理解されないことですが、全てそこには科学では証明できないような超常現象が起こっているような気がするのです。皆さんはそんな経験ありませんか?